しあわせについて、よく考える。「しあわせについて考えることは、不幸の始まりである。」とは誰の言葉だっただろうか。


そもそも、僕哲学が好きで、ガキの頃からそういうことばかり考えていたからなあ。社会に適応できないわけだよなあ。高校の倫理、チョー好きだった。通信大学も哲学科に入ったし、面白かったなあ。


哲学ってさあ。おもしろいんだけど、稼げないからねえ。食えないのはなかなか流行らない。そのうち死滅するのかなあ。明日食うものがない時に哲学とか考えないもんねえ。


でもさあ、パスカルとか、アリストテレスとかチョー好きだなあ。


ああ 話それましたね。
で、しあわせの定義ですが。


「しあわせ」って相対的なものだと思うですよね
例えば、今はこんな生活してるけど、もう少しいい生活になったら、しあわせ、とか


小遣い1万だけど、3万になったから、しあわせとか
恋人いなかったけど、できたからしあわせとかね


つまり、ある状態があって、その状態からよい状態になった時にしあわせを感じるということね。


あ、違う見方もできますね
あの頃に比べて、今の状態がしあわせとかね


実はしあわせが相対的なものだとすれば、しあわせを作りあげることも可能です。
それはどうすればいいか、極端な話、不幸になればいいのです。


たとえば、本当においしいものって知っていますか?
それは断食のあとのごはんだと思います。


まあ、極端な話、ない状態から、ある状態になればいいのです。
ただ、10の状態から11になるだけではそれほど幸福は感じられないそうです。


そして、幸福の感覚は持続しない。
忘れてしまう。


本当はあの時しあわせだったのに。
とかね


着地点が難しくなりましたが、
しあわせの定義は人それぞれです。


政治の話が好きな人もいれば、アイドルの話が好きな人もいるし、料理が好きな人もいて、スポーツが好きな人もいる。


要は自分が幸せだと感じられるものを知ることが大事ですね。


僕ですか?
今はごはんが食べれるだけで幸せです。(笑)


ただ、それも来週には忘れてしまうということです
そのうち、肉が喰いたい、いくらが喰いたいとなるわけです。


価値観が多様化している今、
自分がしあわせだと思うことを見つけることが大事です。


そもそも、人はしあわせなんですけどね。
だって、手があって足があって、食べれて、喋れて、歩けて、走れますよね。


そう、そもそも人はしあわせなんです
それに気づくかどうかだけです。